×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

気ままな人生、きままな旅

北海道 2008年夏

Last Updated Sep.28.2008

ま え お き

 今回の北海道行きは、仕事関連の知り合いたちとの山登りを兼ねての旅だ。
 先に渡道した俺がレンタカーを借りて女満別空港で一行を迎え、登山後に釧路空港で一行を降ろした後、再び女満別に行ってレンタカーを返すという算段。
 とにかく、登山中は晴れて欲しい。
 俺だけだったら、天候が思わしくなければ延期するのだけれど、同行するのは俺と違って日程が限られているまともな人達なので、よほどひどい雨で無い限りは登ってしまうからだ。
 ま、強行するから遭難の可能性が高まるんだけどね。

期間7月19日〜8月10日
使用車両パルサー1500 MT
総走行距離6,413km
燃料使用量404.92L
燃料代合計71,287円
平均燃費15.84km/L
平均金額176円/L
 25日〜28日はレンタカーで山登りをしていたため、その間は含まれてません。
 また、7/31〜8/3の間は、天候回復待ちのため動いてません。

豚串と塩焼きソバ
7月20日 〜函館〜豊浦(とようら)町(北海道虻田郡)

 前日は一般道を14時間で570km走り、大間発函館行き11時30分のフェリーに乗船できた。この「ばあゆ」には何回乗ったんだろう。
 大間崎から北の空を眺めた時にはわかっていたのだけれど、北海道方面は雲が多く天気は良くない。
 このフェリーに乗ったときはいつも、日本海側と太平洋側のどちらが天気が良いかを眺めて、函館上陸後のコースを決めている。今回は日本海側を選択したけれど、どちらも似たようなものだろう。

 北海道に上陸してまずしなきゃならないいことは、給油。そして、セイコーマートで腹ごしらえ。
 今年のセコマは、塩焼きソバだ。たったの100円。具はほとんど入っていないけれど、海産物のダシがきいていてうまい。大手コンビニチェーンも見習え。
 そして忘れてはならないのが、「豚串」。最近ちょっと味が落ちたと思うのは、俺だけだろうか。

中外鉱山跡
 函館からは海岸線をなぞるように松前を通り、上の国では中外鉱山跡を再訪。その後熊石で東に折れて、雲石峠を越えて八雲で太平洋側に出た。雲石峠は、すごい霧だった。
 結局、太平洋側も日本海側も、空模様は変わらずといったところだった。
 八雲町は、明治10年(1877)に尾張徳川家によって開墾が始まった町だ。

 そして今夜は豊浦で終了。
 日帰り温泉施設「しおさい」で汗を流すと、走る気力も洗い流してしまったようで、そのまま駐車場で寝る。気温は20度を切り、千葉と比べたら天国のような涼しさだ。
 付近にはキャンプ場があって、にぎやか。
 花火とバーベキューの他に、やることないのかなぁ。
 火薬くさい。

振内鉄道記念館
7月21日 豊浦〜音更(おとふけ)町

 昨夜とは打って変わって静かな朝を迎えた。みんな久しぶりのレジャーにテンション上がって、夜更かししたのかな。
 それにしても困るのは、この霧。これじゃぁテンション下がって静かにもなるわな。良い景色でも見つけて撮影なんぞをしたいのだけれど、この天気じゃカメラにさわる気にもなりゃしない。
 室蘭では工場の写真を取りたかったのだけれど、この天気じゃぁねぇ。

 途中通過した室蘭・登別・有珠等は、廃藩置県や秩禄処分などで過酷な運命に陥らされた伊達藩士族が入植した地だ。
 北海道へ移住した人々の出身地は、東北、北陸、四国が多い。
 官軍に徹底抗戦した会津藩士が、下北半島の斗南(となみ)へ移封されて苛烈な生活を強いられたのは有名だが、その他の会津藩士は樺太移住のための経由地だった余市に定住し、果樹栽培に成功し余市りんごを誕生させる礎となった。
 東北と北陸出身者が多いのは、寒さに慣れているというのが主な理由だが、四国は何でなんだろう。
 権力者である薩長、とくに北海道を牛耳った薩摩出身者が少ないのは意外かもしれない。しかし彼らは、不当ともいえる安い値段で官営工場などを払い下げられているから、わざわざ未開地を開墾する必要など無いのかもしれない。さらに、数十万〜数百万坪の未開地を正当かどうか疑わしい方法で入手し、そこを小作人らに耕作させれば良かったのだろうう。

 室蘭から太平洋沿いに苫小牧へ至る室蘭本線は、明治25年に開通した北海道炭鉱鉄道会社(北炭、のちに株式会社)が建設した私有鉄道だ。
 幌内炭鉱は、初期の頃は囚人を使役していた。空知集治監(三笠市)は、そのために設立されたようなものである。
 北炭は、官営幌内炭鉱と産出した石炭を輸送するための幌内鉄道が、有力者の暗躍等官民交えたドロドロの利権争いを経て明治22年に設立された会社で、日露戦争後の経営難から住友系列となった。
 幌内炭鉱と積出港である小樽港の手宮を結ぶ幌内鉄道(幌内-岩見沢-札幌-手宮)は、明治15年に開通した北海道最初、全国でも3番目の鉄道だ。
 その後明治25年に、室蘭-登別-苫小牧-追分-岩見沢間に新線を建設した。
 上記両路線は、私有鉄道であるからこそ北炭が自社専用線として独占的に使用していたので、明治29年に鉄道が国有化されるまでは三井・三菱等の財閥系の炭鉱会社が空知炭田に進出できなかった。

 苫小牧では予定通りに給油したけれど、思ったほどは安くは無かった。
 門別から日高へ向かう途中、振内の鉄道記念館で撮影。そして富良野へ向かうか帯広へ向かうか迷ったけど、お菓子の魅力に負けて帯広へ向かった。

日勝峠

 日高〜帯広間の日勝峠は、すげー霧。峠を下って雨が上がったのは良いけれど、晴れ間はごくわずかだった。
 帯広では六花亭本店に寄り、柳月スイーツガーデンへ行き、大量にお菓子を購入してカロリー補給に努める。ホワイトロードなんて、一気喰いだぜ。
 お菓子を食べて満足してしまえば、あとは何もすることは無いので、川北温泉に入る。世にも珍しいモール温泉だとか。
 この温泉の休憩室で見たテレビによると、今後数日は何処へ行っても曇りか雨。かろうじて残っていたやる気も、とうとう無くなってしまった。

 十勝開拓のさきがけとなったのが、伊豆の豪農依田勉三だ。彼が明治14年(1881)に結成した晩成社の13戸が、帯広に入植したが、結局はうまく行かなかった。
 俺の母方の先祖は伊豆出身で、依田という。そして、勉三という親戚も居る。

 時間の経過とともに、霧が出てきやがった。今夜は音更の道の駅で寝てやるぅ。

幸福駅
7月22日 音更〜弟子屈(てしかが)

 7時に目が覚めても、やっぱり天気は悪い。霧も出てりゃ小雨も降ってやがって、気温は20度を切っている。
 こうなってくると、天候が回復するまでどうやって時間をつぶすかが最大の問題だ。晴れている地域があればそっちへ移動するのだけれど、全道的に雨か曇りではどうしようもない。ヘタに動き回れば、ガソリン代がかさむだけだ。
 完全歩合制の写真家の端くれとしては、天気の良し悪しは死活問題なのだ。
 どうしたもんかねぇ。
 とりあえず、マックでコーヒー。100円マックは早朝は無しか・・・

 で、ヒマつぶしその1は、幸福駅。
 北海道には何回も来ていて、まだここが廃線になる前にも来たことがあるのに、幸福駅は始めてだ。
 だから不幸だったのかなぁ。
 駅跡の土産物屋では、当時の切符が売られている。当然レプリカだろう。今日の日付の切符まであるんだから。勝手に切符を作っていると言えなくは無いが、使用できるはずも無いので問題なしか。俺は、廃線になった日付の切符を買った。
 この駅のある広尾線は、昭和4年に開通し、同27年に幸福駅開設。昭和62年(1987)に広尾線の廃止とともに、幸福駅もその役目を終えた。
 さびしくはあるけれど、多額の税金を投入して国鉄の赤字を肩代わりすることになった当時、赤字路線の廃止は当然のことだったからなぁ。
 ま、今でも大赤字の路線があったら、すごく困るけどね。

花畑牧場の生キャラメル

 さらにヒマつぶしメニュー。あの「花畑牧場」へ行って、生キャラメルがそんなにうまいのかどうか確かめてやろうって目論見。
 霧雨が降る朝10時だって言うのに、店内は大混雑。とくにレジには長蛇の列。それもそのはず、スーパーと比べるとかなり効率の悪いやり方だ。これではトラブルが起きたのもうなづける。
 んで、肝心のお味のほうは、確かにうまいと思う。でも、12個入りで850円という値段からすれば、あたりまえってところだな。それに、口に入れてから30秒で溶けてなくなってしまう。キャラメルというよりは、固い蜂蜜か水あめだと思う。
 このキャラメルを買いに来たのには、もうひとつ理由がる。実は25日から総勢8人で斜里岳と雌阿寒岳に登るのだが、ひと足先に北海道入りする俺は女満別でレンタカーを借りて、飛行機でやってくる連中を迎えることになっている。そこで、このキャラメルでも買ってご機嫌をとろうと企んだんだけど、なんとこのキャラメル、要冷蔵だった・・・

 口の中であっという間に生キャラメルが溶けてしまった後は、特段やることは無いし、この天気ではやる気さえ起きない。
 今夜は、道の駅「摩周」ここで寝るのは5泊目くらいだろう。
 ラジオの天気予報を聴くと、何処もかしこも注意報と警報のオンパレード。大雪警報以外は全部出てるぜ。
 事前に予報を良く見てから、出発すべきだった。

多和平
7月23日 弟子屈町〜多和平(標茶町)

 昨夜、かなり星が見えていたので期待していたのだが、朝起きてみると雲が増えていてがっかり。この日も結局、この画像以上に晴れ間が広がることは無かった。
 今日もやる気が起きないので、「ロケハン」と称して、周辺の細かい道に入り込んで行ってやった。ほとんどが未舗装路で、行き止まりも多い。しょっちゅうこんなことをしていると、バックとUターンがうまくなる。

 おせっかいながら付け加えると、もし良い景色を見たいのなら、国道以外の細い道やジャリ道にも入ってゆく必要がある。でもそういった道は行き止まりになることも多く、長いバックと狭い場所でのUターンを強いられるので、大きなクルマでは無理がある。
 4駆やワンボックスは重心が高いので、路面の凹凸の影響を受けやすく大きく揺れるので、意外と適していない。それに、ほんとうに4駆じゃなきゃ行けない場所は、相当に慣れた人じゃないと4駆でも走れないだろう。
 細い道の両側に雑草が生い茂っていることも多く、枝や硬い葉がボディーをこすってキズだらけになるので、クルマのそとづらを気にする人は潔くあきらめましょう。

 きょうは多和平でふて寝。
 ここで寝たことが無かったので、いちどは寝てみようと思っていた。

7月24日 多和平〜女満別(めまんべつ)

 昨夜から隣接するキャンプ場で盛り上がっていた(騒いでいた)ハーレー集団が、朝もうるさい。バイクも人間も騒々しい。まるで初めてのキャンプに興奮して浮かれている子供みたいだ。あんまり血圧が上がるとヤバそうな年齢の集団なのに。他のキャンパーもいい迷惑だったろう。
 不相応な高いバイク買っちゃったもんだから、思いっきりテンション上げなきゃ収まりがつかないんだろうか。いい「おとな」なのに・・・
 ま、このあたりは、クルマの場合でもいっしょだな。
 品のあるハーレー乗りに会ってみたいもんだよ。

 今日もまったくやる気無し。
 空はどんより、気分もどんより、沈殿したまんま。
 今日やったことと言えば、コインランドリーで洗濯した程度。
 明日は女満別空港前のトヨタレンタで、予約しておいた10人乗りのワンボックスを受け取り、9時半までに空港玄関前に居ないと。
 明日飛行機でやってくる、俺よりひとまわりは上のセレブたちは、カネも出すけどクチも出す連中なのだ。
 今夜は女満別の道の駅。
 この5日間、ずっと天気が悪くて何もしていない。
 いったい何だったんだろう、この5日間は。

雌阿寒岳頂上直下
7月25〜29日 斜里岳と雌阿寒岳登山

 ここからの4日間は、総勢8人で山登り。
 斜里岳は生憎の天気で雨足が強く、沢の中を登っていくような状況だった。頂上は真っ白な濃い霧に包まれていて、当然何も見えません。1枚も写真を撮ってないし、撮る気にもならなかった。
 
 26日に泊まった雌阿寒岳登山口にある野中温泉は、昔ながらの伝統的な温泉宿の趣が色濃く残っていて、とても良かった。
 
 雌阿寒岳では、一転して快晴。ほとんど雲が無く、歩いていて日陰が欲しいくらいの暑さだった。山頂付近からはオンネトーと阿寒湖が良く見えて、はじめてその形がわかった。
 頂上までは、エサ欲しさに温泉宿の犬が2匹、登山道をずっとついて来る。山頂ではあちこちの人にエサをねだっていた。
 斜里でも雌阿寒でもたくさんの登山ツアー客に会った。みんな似たような行程を組んでやってくる。しかし、雌阿寒下山後空港に直行してそのまま帰るとは、すごい日程だなぁ。

女満別の麦畑
7月29日 女満別〜中湧別

 登山ツアーご一行様を飛行機に押し込み、レンタカーを返却して、身も心も軽くなったら天気も少しは良くなった、気がする。
 女満別の、特に空港周辺の畑と、緋牛内で撮影。
 もうちょっと晴れ間が多ければもっと良いんだけど。太陽が雲から出てくるのを待つのに、かなり時間をとられる。
 それにしても、北海道はちょっと天気が良くなると、すごいホコリ。夏でも湿度が低いのが良くわかる。
 今夜は中湧別チューリップの湯で汗を洗い流して、そのままそこで寝る。

 ラジオのニュースで、支庁改革について報じられていた。道内にいくつもある支庁を統合するようだが、地元の協力を得るのは難しいようだ。
 また、空知(歌志内、奈井江、砂川等)での市町村合併が、ご破算になったことも報じられていた。期待していた道庁からのカネがもらえそうに無いことが、いちばんの理由らしい。
 合併や統合を先送りすればするほど財政が苦しくなるのは明らかなのに、誰も決断できないでいる。もし道州制を望むのなら、まず地域内での改革が必要だろう。国の支援や地方自治がどうのこうのと言うのは、その後だ。現状では、カネ欲しさの道州制としか思えない。

紋別の廃屋
7月30日 中湧別〜宗谷岬

 7時、快晴。きょうは暑くなりそうだ。といっても、30度は越えないだろう。これが北海道の良いところ。湿度も低いので、とても過ごしやすい。でも、かなりほこりが立つ
 天気が良いと、撮影する気になる。60コマは写しただろう。
 
 稚内の童夢温泉に入ったは良いけど、着替えがない。洗濯しなくちゃなぁ。
 そして今回初めて、宗谷岬で寝る。多和平と同様に、宗谷岬には何度も来たけど、まだここで寝たことは無かった。
 もっと人が集まるかと思っていたけど、意外と少ない。もちろん、交通量も少ない。

稚内の廃船
7月31日 宗谷岬〜中頓別

 どうやら天気は、今日から下り坂のようだ。オホーツク海側は晴れているが、日本海側には黒い雲がある。
 天候の回復は遅く、週明け以降になるらしい。つまり1週間後ってわけだ。
 14時には中頓別のライダーハウスに到着。ここでしばらく天候待ちだ。
 予想通り、何人か知った顔が居た。

中頓別の廃屋
8月1日〜4日 中頓別

 この間は天候の回復待ちのため、どっこも行ってません。出かけたいちばん遠くは、セイコーマート。歩いて10分以内の範囲だ。
 
 中頓別のお祭りに参加。10kmマラソンに出場したんだけど、ゲレになってしまった。サンダル履きってのもあるけど、みんな本気で走るんだもん。健康のために、町民みんなで和気あいあいと走るのかなぁと思っていたのに・・・本気で走ると、からだに良くないよ。
 しかし、その後500円で生ビール飲み放題に焼肉食い放題。歌謡ショーはアリーナ席?でかぶりつきだった。
 日が暮れてからの花火大会は、東京のそれと比べればささやかなものだったけれど、すぐ近くで見られるのでなかなかの迫力だった。
 
 この間、鹿肉、メロン、さくらます、からふとます、やまめの差し入れがあった。どれもうまかったが、鹿肉とさくらますは、おいしいねぇ。

道道688号線沿いの廃車
8月日5 中頓別〜留辺蘂(るべしべ

 全天に渡って一点の雲も無く、文句無しの快晴。撮影にはちょっとは雲が欲しいくらいだ。
 渡道して、はじめてセミの声を聴いた。
 今日は久しぶりに、はっきりとした目的地がある。日本海側の遠別町にある道道688号線と、羽幌の築別炭鉱跡だ。
 まずは道道688号線。この道路は30キロばかり走ったところで、工事中行き止まりとなる。つまり、また同じ道を延々と引き返さなければならないけど、沿道にはいくつか集落があり、いちどは訪れてみようと以前から考えていた。
 国道から分かれてすぐ、この道はまだ開通しておらず行き止まりであることが記された標識がいくつも建っている。たぶん、開通することは無いと思う。
 交通量は非常に少なく、のんびりと走れる。田んぼもあって、本州の農村を走っているような気分だ。
 最後まで行ってやろうかとも思ったけれど、人家が無いところは面白くないことが多いので、除雪車の転回場を過ぎたところで引き返した。転回場があるということは、ここから先には人は居ないということだ。

築別炭鉱跡

 次は築別炭鉱跡。
 ここは数年前に南側から目指したんだけれど、災害による通行止めで断念したところだ。
 築別炭鉱が合った羽幌町は、炭鉱閉山のうわさが流れてから閉山が正式発表される半年の間に、3万の人口が2万に激減した。たったの半年間で人口が3分の2に減るなんて・・・
 高度成長期と国内炭鉱の衰退はほぼ同時に進行し、炭鉱の閉山は過疎化と鉄道の廃止を招き、現在の道内市町村の多大な財政赤字につながっている。
 ここにはかなり立派な校舎が残っているが、炭鉱の衰退が決定的だったのに、こんな立派な校舎が必要だったのだろうか。

 その後苫前から士別を経て当麻の温泉に入り、日が落ちてから国道39号線で留辺蘂に出て道の駅で寝た。

緋牛内のジャガイモ畑
8月6日 留辺蘂〜根室

 7時前に起きた。今日も晴れているが、昨日よりは雲が多い。
 北見からは道道556号に入って再び緋牛内へ行って撮影をした。

 ここ緋牛内には、「鎖塚」という供養碑がある。
 中央道路(別名を北見道路あるいは囚人道路)と呼ばれる現在の網走〜北見峠間の道道104号線と国道39号線の元となった道路は、明治24年(1891)に対露防衛のために開削された道路だ。
 ロシアの南下に対応すべく道内の走路建設が急がれたのだが、当時の釧路の人口7000人弱、標茶5500人ほどでは労働力不足は明らかで、この国防上の急務に釧路集治監網走分監(網走監獄)の約1400名の囚人が建設作業に投入された。工事は苛烈を極め、160kmの道路をわずか8ヶ月で完成させた突貫工事で、200名以上が死亡している。
 死亡した囚人は、鎖につながれた状態のまま土をかぶせて埋葬したので土まんじゅうの塚となり、鎖塚と呼ばれるようになった。

 明治25年頃には道内の囚人は7,000人を越え、19年〜24年に開削された道路1,200kmのうち5割以上は囚人労働によるもので、幌内炭鉱などでは構内作業にも投入された。
 囚人の中には自由民権運動にかかわった国事犯(政治犯)など、現在では罪に問われない者も含まれ、板垣退助ら自由党幹部が同志の慰問のために北海道に来ている。
 北海道各地に送り込まれた囚人の9割が20〜50歳、半数は30歳代で女囚はひとりもいなかったことから、当初より囚人を労働力として使役する計画だったことは明らかだろう。
 このような囚人労働は架橋や屯田兵者建設等でも行われ、明治27年を最後に廃止されたが、その後「タコ労働・タコ部屋」が出現する。
 当時の釧路集治監の庁舎は、現在の標茶高校敷地内にあったが移築され、標茶町郷土館として塘路湖畔に現存している。

 小樽-厚田-月形-三笠
 増毛-滝川
 岩見沢-滝川-旭川-湧別
 湧別-北見-網走
 網走-標茶-釧路
 標茶-厚岸

 上記はすべて、囚人道路だ。

 撮影後は弟子屈を通過して根室に到着。根室は濃い霧がかかっている。
 根室や釧路で快晴を望むのなら、9月に入ってから来なきゃダメだとわかっていても、つい来てしまう。天気が悪いのをこの目で確かめれば、気がすむってもんだ。
 でも、根室は霧が似合う。
 今夜は、根室の道の駅で寝てしまえ!

道道1128号線沿いの風景
8月7日 根室〜美瑛

 快晴だ。昨夜心配した霧は、まったく無い。根室で快晴だなんて、ウソみたいだ。
 上風連から道道813号を西進する。景色が良い上に交通量は少なく、すごく気持ちよく走れる道だ。
 厚岸からは、道道1128号を使って釧路に出た。
 釧路〜帯広間は、特に工夫もせずふつうに国道を通った。
 帯広で再びお菓子を喰いまくり、士幌や鹿追あたりをうろつきながら狩勝峠を経て、東山から道道253号を通って麓郷に出た。
 しかし、特に観光するわけも無く、毎度おなじみ美瑛の富川食道で腹を満たした後、銭湯につかって美瑛町営病院の駐車場で寝た。
 美瑛駅前のセイコーマートが、無くなっていた。困ったもんだ。

富良野の麦畑と廃屋
8月8日 美瑛〜函館〜フェリー〜大間

 6時半起床。ラジオは原爆とオリンピックばかりで、何も面白くない。
 最近足しげく通う置杵牛の丘に登ってから、途中までは昨日の道をほぼ逆にたどり、順当に占冠、日高を通過して、平取にある日高西部広域農道を抜けて太平洋に出た。
 そこからはただ単に国道を走りつなぎ、また豊浦で温泉に入ってからさらに走り続け、22時に函館到着。0時15分の大間行きフェリーに乗船した。
 それにしても、いつも函館のフェリー乗り場にはすんなりとたどり着けない。函館中心部からなら迷わないんだけれど、逆からは良くわからない。
 何回も来ているのに、これだけ迷う場所も滅多に無い。俺が函館の街に合っていないのか、それとも道路標識が不親切なのか。
 また、新築されすっきりと整備された函館フェリーターミナルも、かえって使いにくくなった気がする。以前のゴチャゴチャしていたほうが、利用しやすかっただけでなく、「波止場」の雰囲気があって良かった。
 フェリーは揺れることも無く、午前2時頃大間に上陸。何度も往復している道とはいえ、こんな夜中に不案内なクネクネ道を走ってもロクなことはないから、大間のフェリー乗り場の駐車場でおやすみ。

8月9日 大間〜三本木

 7時におきて、佐井漁港へと向かうが、収穫無し。
 その後はただひたすら国道を南下。
 今回は田代平高原にある七時雨山荘をあきらめ、岩手町で東に折れて、まずは葛巻高原牧場。
 ここは高原への案内板を見かけたから来ただけで、予備知識も期待も無く、どうしようかと思ったけど、来て良かったです。
 

塚森牧場のバス

 次はすぐ近くの、毎度おなじみ塚森牧場。
 このバスを撮影するためにだけ来た。
 どんなふうに錆びていくのか、今年はどれくらいの朽ち方なのか、定期的に訪れたい場所。観光客なんて、まったく来ません。観光施設も無いしね。でも、それがいい。レストランやソフトクリームなんて、いらないのだ。
 ここも北海同様、牧草の刈り取りで忙しそうだった。やはりロール状に丸めるんだけれど、北海道のそれよりはちょっと小ぶりです。
 今回は天気が良くて、まずまずです。

 その後は、ただひたすら国道4号線を南下して、夜の10時に三本木の道の駅に到着。
 これで朝の渋滞前に仙台を抜け、明るいうちに自宅にたどり着けるだろう。

 さすがにここまで南下すると、蒸し暑さを感じる。
 帰宅後、暑さに慣れるまでが大変だ。

 

▷ もどる ◁
気ままな人生、きままな旅
▷▶ HOME ◀◁