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気ままな人生、きままな旅

北海道バイクツーリング 2005-1

Last Updated 25/Oct/2005

 年々減ってゆくライダー。それとともに閉鎖されるライダーハウスも増えていることを感じた今回のツーリング。
 高年齢化は、この世界でも進んでいます。


整備を終え海に戻る漁船
8月30日 自宅〜仙台

 本当は大洗からのフェリーに乗りたかったんだけど、まだ夏季料金期間で高かったので、わざわざ仙台まで自走して行くことにした。競争相手がいないということは、こういうことなのか。
 空いている国道6号線をいい気分で走っていたら、いつの間にやらバックミラーに白いバイクが映っていた。大したスピードではなかったのでそのまま走っていたけど、やっぱり停止させられたが、注意だけで済んだのはラッキー。これも歳の功だろうか、もうほとんどの白バイ隊員は俺より若いからなぁ・・・
 途中、小さな漁港に迷い込んでみると、意外にも比較的大きな規模の造船所があり、ちょうど修理を終えた船を海に浮かべるところだった。船を載せた台車とタイヤドーザーをケーブルでつなぎ、ゆっくりとスロープを下り海に戻していった。その漁船の所属を見ると千葉県の飯岡町になっていたので、ずいぶんと遠くから来るんだなぁと思っていたら、造船所の作業員いわく、海の上には信号も渋滞も速度制限も無く、最短距離を直線で航行するので、自動車よりも早く着くそうだ。
 仙台のフェリーターミナルにはまだ陽が高いうちに着いたのだが、ファミレスを探すのに時間を取られてしまい、ゆっくりと食事ができなかった。ファミレス不毛地帯である北海道に渡る前に、ファミレスフリークを自認する俺としては、絶対に行かねばならなかったのだ。


古い農機具
8月31日 苫小牧港〜夕張〜三笠

 定刻どおりにフェリーは苫小牧港に着岸した。北海道に上陸した時にまず感じたのは、思いもよらぬ蒸し暑さだった。この時期の北海道で暑いと感じたのは、今回が初めてだ。空気がまだ夏のままなので、遠くの景色はかすみ空も透明感が無いことに少しがっかりしながら、フェリーターミナル近くのいつものファミリーマートで小腹に菓子パンとカツゲンを流し込んで走り出した。北海道にきたら、まずはカツゲンを飲まなきゃね。
 苫小牧から岩見沢に向かう国道234号線は空いていて流れが良い。追分で左折して夕張方面へと向かい、まずはシュウパロ湖にかかる古い鉄橋を見に行く。三弦トラス鉄橋というらしい。サビ具合がなかなか見事な鉄橋だが、いずれは撤去されてしまうだろう。


鹿島地区の廃屋

 シュウパロ湖からさらに夕張川を遡り、かつて炭鉱町として栄えた鹿島・富士見地区に行った。このあたりは大夕張と呼ばれる地区で、当時は三菱石炭鉱業大夕張鉄道大夕張炭山(おおゆうばりたんざん)駅があり、夕張市から独立する話まであったのだが、現在は誰も住んでいない。この路線は1939年(昭和14)4月20日に、清水沢・大夕張炭山間の全線が開通し、南大夕張駅・大夕張炭山間は一足早く1973年(昭和48)12月に廃止された。建造物はほとんど残ってなく、遺構も大部分は植物に覆いつくされてしまい、鹿島小学校跡に建てられた碑と、草間に見え隠れする直交したアスファルトの舗装路が、かつてのにぎわいを感じさせてくれるだけだった。新しいダムが完成すると、ここも湖底に沈むそうである。
 ダムサイト横の駐車場でいいサビ色になった鉄橋(大夕張森林鉄道夕張岳線第一号橋梁と呼ぶらしい)を撮影していると、下流のほうからハデな皮つなぎを着たブロスがやってきた。いろいろと話しているうち、彼はこれから富良野に向かうそうだが、明後日に留萌のライハで会おうってことになった。たぶん明後日あたりは雨で連泊することになるので、無料のところが良いという結論に達したわけだ。


南大夕張駅のラッセル車

 シュウパロ湖から夕張に戻る途中、今は廃線となってしまった三菱石炭鉱業大夕張鉄道南大夕張駅跡にホームと車両が残されていたので、これ幸いと撮影しに行くと、同業者と思われる鉄分が濃い方がいたのでしばらく話し込んだ。やはりこの人は、つい1時間ほど前シュウパロ湖に行く途中、ショルダーバッグを下げてひとり国道を歩いていた人だった。かなりの距離を歩いたはずで、その根性には頭が下がる。湖にかかる鉄橋も撮影したかったらしいが、徒歩で行ける様な距離でもないし、1日数本しかないバスの発車時刻も迫っていたので、撮影はあきらめて目の前の停留所から札幌行きのバスに乗って去っていった。その後、そのバスを追い抜くときに手を振ったら、かなりびっくりした様子だった。何年か後に、どこかで再会できそうな気がした。
 この南大夕張駅は、明治44年6月1日開設、1987年(昭和62)7月22日に廃止された。
 夕張駅前に戻り、セコマで豚串なぞを食べていると、かつて近くの炭鉱で働いていたというオヤジが話しかけてきた。彼によると、駅前にある「れーすいの湯」は町で経営していたが赤字がかさんで民間業者に売り渡したものの、やっぱり儲からないので業者が手放し再び町で経営しているとか。しかしもっと興味を引いたのは、ここの湯は何十年にも渡って積み上げられた石炭クズが自然発火して地下水をあたため、温泉がわくようになったという話である。ほんとかよ、なんか危ない気がするけど・・・ 山の中に入れば温泉が勝手に湧いていて、かなりワイルドな無料露天風呂があるそうだが、クマもかなりワイルドなので行く気になるわけ無い。
 さらに彼の話は続き、夕張の石炭は着火しやすく、火力が強すぎてストーブでは使えないので、もっぱら工業用に使われた、非常に質の良い石炭だったそうだが、今では北海道で使われる石炭でさえも輸入品になってしまったそうだ。
 彼は毎日こうしてコンビニへやってきては1本の缶ビールを買い、夕暮れの中で人生を振り返り、いちにちの締めくくりやささやかな楽しみとしているのだろうか。そのオヤジは、時に自慢げに、そして懐かしそうに、最後はさみしそうに話し、缶ビールを飲み終わったところで、家に向かって歩き出していった。


萱野駅舎

 彼の後姿を見ながら、俺もそろそろ今夜のねぐらに向かわねばと走り出し、間もなく富野無料休憩所に着いたが、諸般の事情により閉鎖しますという看板が打ちつけられていて、利用することはできなかった。税金で運営されている、ここのような格安の宿泊所やキャンプ場が次々と閉鎖されていくのは残念だけど、地元の納税者にとっては無駄な使い道と思われても仕方が無いというところだろうか。ただ、こういったライダーハウスが無くなると、夕張に来るライダーやチャリダーが激減し、知名度が下がることは確実だ。今でさえ、かつて夕張に炭鉱があったことを知る人は少なく、若年層のほとんどは全く知らないのだから、そのうち北海道で石炭の採掘をしていたなんて誰も知らなくなるだろう。
 富野がダメでもまだこの先にあるさってことで、三笠にある「旧萱野駅ライハ」へと転がり込む。その名のとおり旧駅舎を宿泊施設として利用したものだ。この路線は石炭を運ぶために、岩見沢からここ萱野(かやの)を通り、幌内(ほろない)や幾春別(いくしゅんべつ)まで延びていたのだが、その最後も炭鉱と運命を共にすることになった。
 ここでは俺と同年代のチャリダーがいた。仕事が原因でうつ病になったが、それが癒えたのでこうして自転車で北海道に来たと言っていた。色々とあるんだねぇ。ただ、彼の話を聞いたり行動を見ていたりした限りでは、彼が完治したとは思えなかった。


萱野駅と車掌車
9月1日 三笠〜妹背牛〜留萌

 朝、この萱野駅の周囲を良く見ると、何本もの線路が通っていたと思われる更地がかなり広く、たくさんの貨車や客車が行き来したことを感じた。さらに周辺を良く見回してみると、大きな倉庫が何棟か建っている。これは北海道の駅、あるいは駅跡周辺によく見られる光景だが、かつては大量の農産物を取り扱ったことを物語っている。現在のように道路が整備されていなかった時代、馬でそりを牽き収穫物を駅まで運んだ話を良く聞く。雪が無くても、ぬかるんだ道ではそりが使われたのだ。それが60年代くらいまでは当たり前の光景だった。1961年富良野生まれの知り合いは、小学校へ登校途中によく馬車に乗せてもらったと言っていた。富良野の中心部に住んでいても、当時はそういう光景が当たり前だったらしい。
 萱野駅は大正2年9月11日開設、1972年(昭和47)11月1日旅客営業廃止、1987年(昭和62)7月12日、JR幌内線全線廃止とともに廃止された。南大夕張鉄道が廃止される、わずか10日前のことだ。
 沿線住民や関係者は、いったいどんな思いで、子供の頃から慣れ親しんだ鉄道の廃止を迎えたのだろうか。


三笠鉄道公園のSL C12 2

 チャリダーを見送ってから、まずは三笠鉄道公園へ向かう。ここはかつて幌内駅だったところで、石炭を運ぶために明治初期に開通した歴史ある路線だ。幌内線の歴史は古く、1982年(明治15)11月13日、札幌・幌内間の開業に始まる。これは北海道初の鉄道である手宮・札幌間開業後のわずか2年後のことだ。その後、北海道炭鉱鉄道への払い下げ、国鉄への編入等紆余曲折はあったが、1987年(昭和62)7月12日で廃止となった。岩見沢から昨夜泊まった萱野を通り、三笠で幌内方面と幾春別方面に伸びていた路線だ。
 ここにはたくさんの車両が展示されていて、蒸気機関車を動態保存しているところがすごい。単なる博物館の置物ではないのだ。俺が到着したのが9時前だったためか受付には誰も居なかったので、建物内以外は無料で見て回れた。北海道には廃止された路線がたくさんあり、こうやって保存されている車両や鉄道関連施設がたくさんあるが、それは鉄道への愛着が深いからなのか、それとも他にこれといった観光資源が無いためだろうか。いずれにしても、こういった近代産業を支えて来たものを保存しておくのは、とても良いことで重要なことだ。なぜなら、今の日本を築き上げたのは、こういったもの達だからであり、俺自身もその上に乗っかって生きているからだ。保存すべきものは古い寺社や城郭だけではないのだが、現状はあまりにも無関心で重要視されてはいない。


植物に覆われる北炭幌内炭鉱

 三笠鉄道公園の先、舗装が切れてからもう少し進むと、北炭幌内炭鉱の施設が現れる。有志の手によって公園としての整備がなされているようだが、もうすぐ森に覆われてしまいそうだ。もしかしたらそれでも良いのかもしれない。鉄道と並んで、こういった炭鉱関連施設も観光資源になると思うのだが・・・・
 こういった場所の見学は、雑草が枯れ、木々の枝に葉が無く、雪も無い時期が良いだろう。
 北炭幌内炭鉱の開坑は1879(明治12)年で、1989(平成元)年に閉山。


奔別炭鉱立坑櫓
威容を誇る奔別炭鉱立坑櫓

 次は奔別(ほんべつ)炭鉱にある、大きな立坑櫓を見に行く。遠くからでもその威容ははっきりと見えるので、迷うことなく到着。今でも圧倒的な存在感と威厳を保ち、大地にしっかりと根を張った古木のように建っていた。
 このタワーは、浅い部分の石炭を掘りつくしたため、もっと深くにある石炭を掘るために作られたものだ。1960(昭和35)年建築、高さ51.52m、立抗内径6.4m、深さ740mを誇る、東洋一と呼ばれた立抗だったが、1971年(昭和46)年10月25日に閉山となった。
 このタワーから地中深くまでケーブルを張り、エレベーターで作業員や石炭を運んだのだが、実際の使用期間はたったの11年と短い。閉山時の爆発事故でケーブルが切れてしまい、まんぞくな現場検証もできないほどに壊れてしまったため、その時の壊れたままの状態で坑口を密閉したので、タワーの下は立ち入り禁止となっている。つまり、落ちたら救助のしようが無いということだ。
 また、ここは企業の私有地なので、見学するには入り口近くにある事務所で許可を得なければならない。


閉鎖されたアパート

 奔別立坑櫓から戻る途中、たぶん弥生地区で、赤いトタン屋根の住宅が見えたので見学に行った。もうこういったアパートも残り少なくなってしまった。写真を撮っていると、住民が出て来て「役場の職員か?」と尋ねられた。市当局による古い公営住宅の取り壊しの調査と勘違いしたようだ。もっと便利な市街地に新しい公営住宅が建ったのだが、新しいほうは当然家賃が高いので、入居者の多くは当然引っ越す気は無いそうだ。ここのアパートのすごいところは、入居者がいなくなったところから次々と取り壊しているところだ。これではまるで、バブル景気時の底地買いや地上げとまったく同じやり方で、うまく話がまとまるわけが無い。
 三笠中心部から国道12号線へ入り、浦臼で275号線へ乗り換えて、ホロピリ湖へと向かう。ここにも炭鉱遺跡があるのだ。途中の新十津川町は災害を期に奈良県十津川村から集団入植した人たちによって作られたのだが、千葉県から集団移住した地域の名前がなぜ北竜町なのだろうか。雨竜町の北にあるからという単純な理由だろうか。新上総町とか、両総町とか、そういった名前にはできなかったのだろうか。
 ホロピリ湖の炭鉱遺跡だが、湖沿いの林の中にいくつかコンクリート構造物らしきものの頭頂部が見えるだけで、そのほとんどは木々に覆いつくされていて全体像は見えなかった。見落としてしまい、通り過ぎてだいぶ奥まで行ってしまったくらいだ。


明日萌駅(恵比島駅)

 留萌本線の恵比島駅(えびしま)駅には、NHKドラマ「すずらん」で使われた明日萌駅のロケセットが今でも残されているが、もう訪れる人はほとんどいない。あの時の遠野凪子はかわいかったなぁ。駅付近には、怪しい?二輪解体屋らしきものがあった。
 ライダーハウスに到着すると、ホロピリ湖で会ったブロスのハル坊はもう到着していた。荷物を安定させるために使っている、お風呂のすのこがあるのですぐわかった。
 そしてもうひとり、ここで出会った人がいる。数年前からネット上では知っていた、青カタナのくまさんだ。いつか会うとは思っていたけど、路上ですれ違うというのをずっとイメージしていたので、まさかここで会うとは思いもよらなかった。


留萌漁港の廃船
9月2日 留萌

 今日は天気が悪いので、留萌にもう一泊。
 あいかわらずの留萌のライハ。変わらないから来やすいのだ。
 俺と同様に、ここで雨をやりすごすやつらもたくさんいて、これだけの数の人間が、特にやることもやらなきゃならない事も無く、こうして時間をつぶしている場所はそんなに無いだろうし、ある意味貴重な存在だと思う。ヒマにまかせて、パンク修理を教わっているチャリダーもいる。
 実はここ、数年前から存続の危機に面しているようだ。無料であることが災いしてか、運営費の捻出が難しくなっているようだ。だったら、長期滞在者には悪いけど、1000円くらいだったら利用料を集めても良いと思う。すでに、かなり任意に近いけど、「カンパ」という形で光熱費を集めているのだから。このカンパってやつは目安が無く、いくら払えば妥当なのかがはっきりせず困るので、いっそのこと明確な利用料を集めたほうが良いだろう。もし、無料にこだわるばかりに閉鎖されたら、この施設の主旨はなんだったのかということになるはずだ。
 もしここが無ければ、いまだに俺は「留萌」ってどう読むのかわからなかっただろうし、留萌という町の存在さえ知らなかっただろう。留萌がニシン漁や近所の大和田炭鉱の石炭の積み出しでにぎわったことも、石炭運搬船の座礁事故のことも知ることは無かっただろう。このライハがあることで留萌の知名度はかなり上がったと思う。


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