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気ままな人生、きままな旅

北海道 2006年夏・2/12

Last Updated Jly.16.2006
国鉄松前線櫃の下川橋梁
国鉄松前線櫃の下橋梁
7月1日 福島町〜岩内町

 6時過ぎに起きると、曇り空。タバコは今日から値上げ。税金は取りやすいとこから取るなんてことを続けていると、ロクなことにならないだろう。
 画像は、国鉄松前線の櫃(ひつ)の下川橋梁。JRではなくJNR時代の遺構だ。何処でも同じことだが、大昔の物は大切に保存するけど、近代の発展を支えた産業遺跡は全く保存されていないことが情けない。奈良や京都の古寺と同じくらい重要なのに。
 この橋梁も、他のもの達と同様に、いずれは崩壊するか解体されてしまうだろう。
 そうして何処の街も、何の特色も魅力も無くなり、活気も人口も減り続け、あわてて集客力を高めようと画策したときには手遅れとなってしまう。

廃船
廃船

 人為的に切断したのだろうか、見事に真っ二つになった漁船だ。こんなの初めて見た。
 こういった木造の漁船は、ほとんど目にすることができない。現役のものはもう残っていないだろう。
 このクラスの大きさだと、鋼鉄船すら残っておらず、みんなグラスファイバー製になってしまった。FRPの船体は、ただただ古くなり薄汚れていくだけで、木造や鋼鉄製の漁船が見せるある種のすごみの様なものは感じられない。

中外鉱山

 上ノ国町の石崎から石崎川を数キロさかのぼると、右手の斜面に中外鉱山(中外鉱業上国鉱業所)跡が見える。
 ここはマンガン鉱山で、マンガン鉱を精錬するために画像にある焙焼炉を使い、掘り出した鉱石を焼いていたらしい。
 昭和14年(1937)操業、昭和35年頃に最盛期を向かえ、昭和61に創業停止。
 付近に残っている小学校跡が、かつての賑わいを伝えている。その規模から、かなりの人口があったようだ。
 しかしこの鉱山も例に漏れず、今では訪れる人も無く荒廃してしまい、いつクマが出てもおかしくないほどに還っている。
 焙焼炉は傷みが激しく、一部穴が開いているところから、いつまでこの威容を保っていられるか心配だ。
 立ち入り禁止の立て札には、しっかり中外鉱業と記されていたので、会社自体はまだ存在しているのかもしれない。

復元された江差町の開陽丸
復元された江差町の開陽丸

 ご存知、開陽丸。江差港に「置かれて」います。
 幕末に徳川幕府がオランダに発注した、2500トン超の木造軍艦だ。当時最新鋭の軍艦も、建造からわずか1年7カ月後に、榎本武揚らを乗せ江差沖に来たが、暴風で座礁沈没。
 1974年から始まった発掘調査で、6門の大砲、3000発の砲弾(よくこんなに積んでいたもんだ)、その他食器や衣類等3万点にのぼる品々が発掘されたそうである。
 500トンほどの咸臨丸と比べても、その大きさがわかる。
 この復元された開陽丸は鋼鉄製で、海に浮かんでいるのではなく海底に固定されているようで、見ようによっては座礁しているよう。もしかしたらこの船の最後をも復元しているのだろうか。

 関係ない話だが、この復元されたものは鋼鉄製で鋼鈑は溶接されているが、大型船を溶接で製造できるようになるのは意外にも戦後のこと。最近映画で使われた戦艦大和の撮影用セットは、ちゃんとリベットが表現されているところがすばらしい。
 さらに関係ない話だけれど、木造建築を見る際、その木材がカンナがけされたものかチョウナが使われたかを見れば、元禄時代あたりより前か後かを推測できる。

 ちなみに同じくオランダ製の咸臨丸は、サンフランシスコで修理の際アメリカ人技術者から手抜き工事が指摘されたようだ。
 その後、小笠原諸島の調査(このおかげで小笠原は日本領になった)を行った後、日本の技術不足から修理不能となった機関がはずされて純帆船となり、戊辰戦争の際徳川(旧幕府)艦隊の輸送船として他の船に曳航され江戸湾を脱出したものの漂流してしまい、現静岡県清水市で政府軍に没収されてしまった。
 新政府の所有となってからは、仙台藩士の北海道移住に使われ、後に民間の海運業者に売り払われた。
 咸臨丸の最期は、明治4年(1871)ここ江差の近所の木古内町沖で座礁分解と、数奇な運命(さんざんな目)をたどった。
 清水で政府軍の手に落ちる際、船内にいた幕府側の兵士は降伏の意思を示した(大砲等の武器は装備されていなかった)がほぼ全員が政府軍により殺害され、遺体はそのまま放置され波間を漂っていた。実はこのやり方は白虎隊で有名な会津での戦闘でも同様で、会津の場合は遺体埋葬の禁止命令が出たほどだ。しかしその惨状を見るに見かねて、政府のとがめを恐れずに丁寧に埋葬したのが、あの清水の次郎長だそうだ。

北檜山町の廃屋
北檜山町の廃屋

 北海道でよく見られるもののひとつに、廃屋(離農)がある。
 板壁にトタン屋根、傾斜のきつい赤いトタン屋根の農家が一般的なイメージだが、もはやそういった建物は探すのもひと苦労となってしまった。
 土地に余裕があるここ北海道では、古い建物は解体せずに納屋などに転用し、隣の空いている場所に新築することが多い。転用された古い建物はほとんど手入れをしないので、痛むにまかせるだけとなる。ここ数年、強風をともなった台風が北海道を襲ったので、古い農家の建物の多くは倒壊してしまった。そういった農家は雪には強い反面、強風には弱い構造となっているようだ。

車庫と椅子・島牧町
車庫と椅子 島牧町

 資本を持った者は大規模化を進めて生き残ることができるが、そうでない者は離農するしかない。離農すると農地は家屋ごと新しい所有者のものとなる。農業も数ある産業のひとつと考えれば当たり前のことかもしれないが、農業と言えども経済原則には逆らえない。
 時には家財道具の大半を残したままの、離農跡を見ることがある。そういった廃屋の、壁にかかるカレンダーを見れば、離農していった年がわかる。

 今夜は、以前来たことがある寿都(すっつ)温泉ゆべつの湯につかり、岩内の道の駅で眠ることとする。
 今日も暑かった。夜は涼しくなるから、許せる。

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